原爆ドームについて詳しく知る

原爆はなぜ広島に投下されたの?

アメリカは、当時、日本をできるだけ早く降伏させアメリカ軍の犠牲を少なくしたいと考えていました。また、1945(昭和20)年2月のヤルタ会談で旧ソ連が対日参戦することが極秘に取り決められ、アメリカは、それ以前に日本に原爆を投下し、戦後、世界 で優位に立ちたいと考えていました。さらに、20億ドルの経費と最大時には12万人以上を動員して開発した原爆が戦争終結につながったとアメリカ国内向けに正当化する必要もありました。
こうした中、1945(昭和20年)の春から投下目標都市の検討が始まりました。都市の規模や爆風で効果的に損害を与えることができるなどの条件で進められ、目標都市への空襲が禁止されました。広島を第1目標としたのは、目標都市の中で唯一、連合国軍の捕虜収容所がないと思われていたためです。

原爆はどこで爆発したの?

昭和20年(1945年)8月6日、一発の原子爆弾により広島市街の建物は一瞬にして倒壊し、灰燼に帰しました。産業奨励館は爆心地から北西約160メートルの至近距離で被爆し、爆風と熱線を浴びて大破し、天井から火を吹いて全焼しましたが、爆風が上方からほとんど垂直に働いたため、本屋の中心部は奇跡的に倒壊を免れました。当時この建物の中にいた内務省中国四国土木出張所や広島県地方木材株式会社・日本木材株式会社広島支社・広島船舶木材株式会社等の職員は全員即死しました。

被爆前の原爆ドーム(広島県産業奨励館)
広島平和記念資料館(所蔵・提供)

原爆ドームは爆心地にとても近いのに、どうして崩れずに残ったの?

原子爆弾は原爆ドーム(当時は広島県産業奨励館)から南東約160メートルの高度約600メートルの位置で炸裂しました。建物内にいた人は全て即死し、建物内は熱線による火災で全焼しました。爆風の圧力は1平方メートルあたり35トン、風速は440メートルという凄まじいものでしたが、建物の屋根やドーム部分は鉄骨部分を除き、多くは木材で作られていたため、真上からの爆風に対して耐力の弱い屋根を中心につぶされ、厚く作られていた側面の壁は完全には押しつぶされず、倒壊を免れました。 

被爆後の原爆ドーム(広島県産業奨励館)
広島平和記念資料館(所蔵・提供)

なぜ、被爆したそのままの姿で残されているの?

原爆ドームを残すか、取り壊すかという議論は、戦後から行われていました。被爆の悲惨な思い出を想起するため、取り壊そうという考え方は当時からありました。しかし、保存運動が本格化したのは、1歳で被爆し、白血病になって16歳で亡くなった楮山(かじやま)ヒロ子さんが残した日記がきっかけだと言われています。「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、恐るべき原爆を世に訴えてくれるだろう」という言葉に心を打たれた人たちによって、保存への運動が始まりました。集められた募金をもとにして、1972年から数回にわたって保存のための工事が行われ、現在まで建物が維持されてきたのです。

原爆が投下された当時の話を聞くことはできますか?

平和記念資料館では、被爆者、被爆体験伝承者によって、原爆被害の実相と被爆体験についての講話が行われています。また、国立広島原爆戦没者追悼平和祈念館は、朗読ボランティアによる被爆体験記や原爆詩の朗読を行う朗読会を、定期的に行っています。

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